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2010年12月22日

695 経営者の集いで得る人のむすびの妙

倫理法人会では、倫理の実践により事業が良くなった体験を語る「経営者の集い」を開催しています。事業体験は、それが異業種であっても、普遍的な生活法則をベースとした貴重な生きた学びです。 
ある倫理法人会の「経営者の集い」に、25社35名が集まりました。そこで思いもかけない出会いがあったのです。
お世話役の役員の皆さんは、開催前日まで奔走し、PRに汗を流しました。チラシも作成し、「宣伝の倫理」の実践とばかりに、開催会場周辺の会社に配って回りました。チラシを配った地域に、地元の有力企業のI株式会社がありました。だめで元々という思いでチラシを持っていったのですが、I社長はチラシを見て非常に興味を持ってくれました。そして「経営者の集い」の当日には、社長自身が参加してくれたのです。
I社長は、事業体験を発表するS氏を見るなり、「おー」と声を上げて駆け寄りました。なんとS氏とは、かつて同じ職場で働いた旧知の仲だったのです。25年ぶりの再会でした。S氏は失敗から成功へと駆け上がった苦労人で、現在は倫理を基盤に社会貢献に励む社長として地域では有名です。一方、I社長は有力企業の社長として事業を展開していました。別々の道を歩んだ二人の再開は、まさにドラマのようでした。そしてそれは、一枚のチラシから始まったのです。
この種のドラマは面白いもので、どうやら連鎖反応を起こすようです。
I社長と同じく初めて「経営者の集い」に参加したM社長は、懇親会の席で事務局員のTさんと話をしていました。二人とも初対面のはずですが、妙に話が合います。聞けば家族は前から知り合いだったことがわかりました。急に心理的な距離が近くなり、M社長はいてもたってもいられなくなって、その日のうちに入会を希望したのです。Tさんがよくよく聞くと、〈自分は仕事の都合で経営者モーニングセミナーには出席できないから、入会できないと思っていた〉とのこと。その疑問もTさんの説明ですぐに解消しました。両社長にとって、出会いと縁の深さを感じた初めての「経営者の集い」となったのです。
 倫理運動の創始者・丸山敏雄は、このような「縁」について次のように述べています。
さて空中には何もないようだが、親子・夫婦・兄弟・交友・その他の間には無形の紐帯にむすび合わされて社会がつくられているように、心の関係においても十重二十重に、ちょうど電線を引きまわしたように―いや無電の発信機と受信機のように、打てば響くの関係にあって、これは、動植物・機械・器物・その他一切の物・現象に及ぶ。これは空中にある電気の作用を想像すれば、大凡の関係が想像出来る。これを「えにし」(縁)と言う。地縁・血縁という言葉があるが、おもしろい。
(『実験倫理学大系』P82)
人の心とは、磁石のようなものかもしれません。時間や空間を超え、必要な人が必要な時に必要な場へと引き寄せられるのです。縁によって得たつながりは、その後の人生を大きく左右します。誰と出会い、どのような影響を受け、またどのような影響を与えたかによって、自身の社会性が動き出すのです。
どのような出会いが未来に待っているか。それは己自身の心と働きにかかっています。
  


Posted by 豊田地区倫理法人会 at 13:02 │今週の倫理

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2010年11月14日

純粋倫理に惚れ込もう

倫理法人会は、人間生活における法則「純粋倫理」を経営者が学び、それを経営の中心に据えた「倫理経営」を実践する企業の輪を広げて、地域社会の発展・繁栄に貢献していこうとする団体です。
地域社会に貢献し、世の中を良くしていこうとするには、良いことを学び良いことを実践する仲間が多ければ多いほど一体感が生まれ、現実味が増してくるものです。
倫理法人会の活動の一面として、経営者の学びの会であることは揺るぎないことです。もう一方で、多くの経営者にこのことを知らしめる「倫理運動」推進という使命を帯びた運動体であることも、組織としての重要な一面です。だからこそ、友人、知人、同業者、また見ず知らずの経営者に対して「倫理運動」への賛同を得る「普及活動」が欠かせないものとなるのです。
いまだ多くの人に知られるところではない「純粋倫理」を伝えることは、困難を極める活動です。怪しげな団体だと誤解され、なかなか理解を得られずに歯がゆい思いを味わい、「普及活動」から足が遠のくことも多々あります。
こうした外的要因とは別に「自分は人に伝えられるほど純粋倫理を理解していない」という、内的要因が理由となって「普及活動」に消極的になる場合もあるようです。しかし、何かを伝えようとする時に、その全てを理解することは必須の要件とは言えないでしょう。
例えば、明治維新に関係した多くの志士たちは、文字どおり高い志によって行動を起こしましたが、その全てが理論や理屈に端を発していたとは言えないでしょう。歴史事実として伝わる面だけを見ても、天と地がひっくり返ったような変化の時に、全てを理解して完全な説明をすることが出来たかどうか。それは「否」であると容易に想像できます。
世の中の常識とはなっていないものを広めようとする時、完全なる理解をもとにした理論や理屈では効果はありません。なぜなら、伝えようとしている相手にとって、あくまでそれは「非常識」だからです。常識を超越した話の説明を重ねても、徒労に終わるだけでしょう。
では、何をもって事に臨めばよいのでしょうか。それは、伝えようとするものに対しての揺るぎない信念と情熱です。維新の志士と同様に「自分にはこれしかない!」と惚れ込む気概です。
倫理法人会の活動では、他の学問や思想、宗教の排斥は行ないません。逆に「純粋倫理でなければならない」という言い方もしません。しかし、自ら進んで「これしかない!」と純粋倫理に惚れ込み、どっぷりと没入した人の周りには仲間が集まり、事業面でも良い結果が出ているという不動の事実があります。
世には、伝えていくうちに見えてくる世界があります。今年度、全国七万社という普及目標は「純粋倫理」の理解を深める大チャンスであると捉え、信念と情熱という燃料を燃やし尽くして、全力で走ってまいりましょう。
  


Posted by 豊田地区倫理法人会 at 15:16 │今週の倫理

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2010年11月04日

今週の倫理 688号

明るい心を意識し 周囲の環境を変える

今年度の倫理法人会スローガンに「家庭に愛を」という文言が加わりました。
 経営者にとって家庭がおろそかであれば、企業経営に影響を及ぼすことになりかねません。倫理の学びは人(相手)を変える勉強ではありません。自分自身が変わることによって社員や家族がよりよくなるところが、倫理の醍醐味の一つでもあります。
しかし、そのように学んでいながらも、「社員にもっとこうなってもらいたい。こうしてほしい」と求めるのが経営者です。それは妻(夫)や子供に対しても同様です。こうした心持ちが強くなると、自分の思い通りにならない状況下では、相手を責め過ぎたり嫌ったりします。このような家庭や職場では、よい環境とは呼べないでしょう。
 よりよい環境をつくっていきたいと願うならば、自分自身の心のあり方を見つめることが大切です。『万人幸福の栞』37頁に次の一文があります。
  その人の心の通りに、境遇の方が変るのである。
心の据え所が変わると、環境はガラリと変わるのです。
 経営者のA氏は、家族との会話がなくなり家庭崩壊寸前でした。その負の環境が、会社においては社員に対するキツイ言葉や態度として現われていました。氏はある時、倫理法人会員のB氏に誘われて倫理講演会に行き、「人として大切なこと」をいくつも学びました。中でも印象に残ったのが「ありがとう」という言葉の大切さでした。
A氏は、家に帰りさっそく実践したそうです。「ただいま」「お帰り、○○さんから電話がありましたよ」「ありがとう」。食事の時間には「醤油とってくれる」「…はい」「ありがとう」「お皿とってくれる」「はい、どうぞ」「ありがとう」というように。
気づいた時には、妻との会話が成立していたというA氏。今では妻と子供たちが楽しそうに会話をしている姿を見ているだけで、大きな幸せを感じるといいます。
これまで夫婦の間に会話がなかったのが、「ありがとう」と自ら発することにより、冷ややかだった家庭が温もりある家庭へと転じました。会社でも、社員に対して「ありがとう」「お願いします」という言葉が自然な形で発せられるようになり、それに呼応するように社員の仕事ぶりも今まで以上によくなっていったのです。
心の様子は目に見えないものです。しかし見えない心の状態を、表情や言葉や姿勢はしっかりと伝えています。よい表情がよい人相をつくり、よい人相はよい環境をつくります。プラスの言葉はプラスの明るい性格をつくり、それが前向きで積極的なプラスの環境につながります。また、背筋をシャンと伸ばした堂々たる姿勢は、シャンとした生活につながり、シャンとした環境をつくりあげていきます。
だからこそ、どのような時でもニッコリ笑い(表情)、常にプラスの言葉や明るい挨拶、そして「ハイ」の実践を心がけ(言葉)、さらには背筋を伸ばしてシャンとする(姿勢)ことが大切なのです。
企業の経営者であると同時に家庭人でもあることを常に忘れず、自身が率先して純粋倫理の実践に力を注いでいきましょう。
  


Posted by 豊田地区倫理法人会 at 10:49 │今週の倫理

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2010年09月24日

今週の倫理 681号

悪いのは私であると 自分を振り返ろう

うちの家はみんなが悪い
きょう私が学校から帰ると、お母さんが「お兄ちゃんの机を拭いていて金魚鉢を落として割ってしまった。
もっと気をつければよかったのに、お母さんが悪かった」と言いました。
するとお兄ちゃんは「僕が端っこに置いておいたから、僕が悪かった」って、言いました。
でも私は思い出しました。
きのうお兄ちゃんが端っこに置いたとき私は「危ないな」って思ったのにそれを言わなかったから、私が悪かったと言い出しました。
夜、帰ってきてそれを聴いたお父さんは「いや、お父さんが金魚鉢を買うとき、丸い方でなく四角い方にすればよかったなあ。お父さんが悪かった」と言い出しました。そしてみんなが笑いました。
うちはいつもこうなんです。
うちの家はいつもみんなが悪いのです。
      ▽
ある小学生の作文をご紹介しました。
私たちは何か問題が生じると、この「うちの家」とは逆に、つい自分のことは棚に上げて、他人のせいにすることがよくあります。
「自分は精一杯やったのだから、あとは君たちの責任だ」「伝えるべきことは伝えた。よく理解しなかったお前が悪い」というような心理が無意識に働いているのです。
こうした心理状態では、起こった問題を通じて自分自身はもちろん相手にとっても何のプラスも進歩もありません。「自分が悪かった」「自分の配慮が足りなかった」と振り返る心が場を和ませ人間関係を良くし、やる気を引き出していきます。
幹部社員のAさんは、新規採用した二人の新人教育を任されました。
二泊三日の缶詰め状態で、即戦力になるようにしなければなりません。Aさんは精一杯取り組み、新人二人も真剣に耳を傾けてくれました。
教育の成果を確認する意味で最後に試験が行なわれましたが、二人の成績は散々なものでした。
Aさんは「これは仕方ないよな。急にすべてを覚えられるものじゃないし、これから現場で一つひとつ身につけていくしかないだろう」と思ったのです。
ところが総括として社長から言われたことは意外なことでした。「
新人二人はよく頑張った。試験の成績が悪かったのは、A君、君の教え方が悪かったんだ。自分自身がちゃんと仕事のことを分かっているのか、しっかり反省するように」というのです。
Aさんにとっては、この一言は胸にグサリと突き刺さりました。
改めて相手のことを察するとともに、常に自分自身を謙虚に振り返る必要性を学んだのでした。
日々の生活や仕事の中では様々な問題が生じます。その原因をきちんと究明するのはもちろんですが、最後には「自分自身に何か至らぬ点はなかったか」を冷静に振り返る謙虚さを持ちたいものです。

*前号にて「丸山敏雄生誕百二十年」を今年度と表記しましたが、正しくは来年度です。お詫びして訂正いたします。
  


Posted by 豊田地区倫理法人会 at 08:15 │今週の倫理

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