みなさーん お早うございます
今日もすがすがしい朝がやってきました
17日に行われたモーニングセミナーの内容をブログで記載いたします
高濱会長
みなさんお早うございます。今日は大変な方をお招きしました。市会議員を10期務め、まちづくりのために38年を費やしてきた方です。会員の皆さんをお尋ねした時に板倉先生のお話をすると必ず「あの人にはお世話になった」というお話しが出てきます。今日もMS前にいろいろ話していましたが、とにかく町中のことをよく御存じで、全てのことにかかわっており、そして今年で88歳なのにとにかくお元気で、本当に今日の講話が楽しみです。
そして今日はもう一つ楽しみなことがひとつ。新しい会員さんがまた一人増えました。どうぞ壇上におあがりください。
入会式
イルチブレインヨガ豊田スタジオ 斉藤様
高濱会長とはコモスクエアで行われています、癒しスクエアでご一緒させていただいたのが縁です。私たちの理念は自分を愛し、まわりを愛し、地域を愛することです。ヨガ教室ですから体を健康に心を健康に、自分自身が目指す姿の実現に向け一緒に学んでいます。
講 師 豊田市駅前通り南開発(株)
代表取締役社長 板倉 猛 氏
テーマ 私の人生と まちづくり
みなさんお早うございます。只今ご紹介に預かりました大林町の板倉猛です。私の会社は昭和42年に開業しました豊葉工業です。少し前はあまり景気がよくなく、私の会社も赤字の状態がここ2、3年続いていましたが、最近やっと景気が戻り黒字にもなりましたが、とにかく親会社始め、まわりの社長の方も私の孫のような方が行っており、お付き合いにもお洒落さが必要など努力しています。
現、トヨタ自動車の会長であります、調さんとは古い付き合いになります。私が高岡役場の助役の頃にトヨタ自動車の高岡工場のお話があり苦楽を共にした仲間です。
ところで私はこの会をよく知らずに来ました。朝起きの会は私も創立から参加をしていました、ロータリーも20年以上行っています。この会がそういったことを含めた素晴らしいかいということにお招きいただき心から感謝をいたしたいと思います。
実はこの会場の社長とは私が役場のころ畜産に関わっていた関係でよく知っています。
今日の話は皆さんに歴史を知っていただきたいと思います。あの時私はどんな立場にいたか。この時はどうだったか、そんなことを話す中で私がどんな立場の人間なのかを知っていただきたいと思います。
とても今日一日では終わらないのでまた呼んでいただければ思います
私の家は大きな農家で兄弟は8人。その中で私が長男です。小学校の頃は体も小さかったのですが、自宅から3キロも歩いて通っていたために走りは早かったです。そのころ支那事変がありました。中学校から上層教育に行く子もいなく、私も中学校を卒業後は実家の農家を継ぎましたが、どうしても勉強がしたく早稲田大学付属高校の通信教育を受けました。百姓だけではお金にもならなかったので日雇人夫もしました。15,6歳いろいろありましたが、私の夢は兵隊さん行くことでした。後にはお国のためとか言われましたが、理屈ではなく、兵隊さんになるのが当たり前と思っていました。私が崇拝していたものは「軍神」航空上林中尉は南方の花と散った方であります、「国のため 何か惜しまん 若桜 散っ て甲斐ある 命なりせば」この詩が少年として焦がれていたことです。通信教育も中等教育なり資格を取り航空隊に入りたかったからです。そのあと浜松の航空隊に入ったわけですが、毎日毎日上官から精神教育のため殴られ、毎晩寝るときになると窓の外から汽車の音が聞こえてきて実家が恋しくなり毎晩泣いていました。その頃になるとB29が本土まで飛来するようになりゆっくり訓練を受けている時間が無くなったので韓国の大連の飛行場に行きました。そこでの思い出は先輩たちが一週間に一回くらい飛び立つのを見送ったわけですが、結局彼らは帰ってきませんでした。そのあとも負け戦争が濃厚になってくるといよいよアメリカ軍はどんどん攻めてくる。そして昭和20年8月。兵舎もないので小学校で敗戦を知り、日本へ帰ってきました。
私が日本へ帰ってきてとにかくやらなければいけなかったことは食糧増産。とにかく青年運動を起こさなければいけないということで三利の加藤利平さん、トヨキンの鈴木健三さん、アイシンの杉本さん、豊田ガーデンの天野さんと、これからは農業だけではだめだということで、畜産を行うようになりました。おかげで高岡町の畜産量は愛知県のナンバー2でした。
私が昭和34年議員に立候補したのは豊田市との合併のためでした。そしてその後トヨタ自動車高岡工場32万坪、次に堤工場。そこに調相談役が一担当として来ていたわけですが本当に素晴らしい方でした。
私が町会議員の時は、その他伊勢湾台風がありました。その時は地元の役場の職員、消防団、地域の皆さんが一緒になって復興を行いました。決して国に頼らず助けれる人がみんな集まり全員一丸で復興を行いました。東北震災は確かに大変でしたが、あまりにも国に頼りすぎる。もう少し自分たちで何とかするという意識も大切だと思います。
高岡町と豊田市の合併は7割が反対でしたが私と他3人が一緒になり何とか無事合併に成功しました。そこから私の区画整理人生が始まるわけですが、豊田市はトヨタ自動車の発展と共に新しく寮や団地が新しく建ったわけですが、整理されておらずひどいものでこれはいかんと半ば強制的にいろいろ推し進めたものですから、裁判沙汰になることもありました。
もう一つは都心対策。一つ目は駅西(そごう)、2つ目は駅東、3番目が参合館、4番目がコモスクエア、そして5番目が北街区です
最後にひとつ言っておきます。豊田の町は都心整備を行ってもそんなに訪れる人は増えません。浜松と一緒です。海まで整備したけど凧揚げの場になっただけ。浜松は豊橋と合併すべき。そうすれば海と山を持つことになる。そういうことを考えると碧海5市と一緒にならなければいけない。今の豊田市のように山ばかりでは全く儲からない。人助けだけになってしまう。そう考えると豊田市は海が必要ということです。このままでいくと岡崎に取られてしまう。これは皆さん方でやっていただかなければいけない。それだけ最後に皆さんにお願いをしておきます
今日は途中ですがこれで講和を終わります。ありがとうございました。